『偉そうに言うが勝ち』 勝間出和代・著(新人物横行社刊) 一般に、小市民を始めとするいわゆる「善良」な大衆は、もっともらしいことを偉そうに言われればそれを有りがたがる性向にある。言う方にそれを言い切るような強引さがあればなおさらである。おのれの不安や迷いに対して、何かしらのアドバイスになるようなことを、いかにももっともらしく強気に言ってもらうことによって安堵を得るのである。
本書では、社会的な処世術や商売術、あるいは社会的心構えに関して、徹頭徹尾、「善良」な一般大衆のレベルに則って、いかにももっともらしく偉そうなことが強気に書かれてある。
最近では放送メディアなどにもよく登場している著者であるが、一般大衆に受けて評判になっているのは、今の世の中が慢性的な不景気の時代であるということにも大いに関係している。そこは留意しておきたいところである。
『平気でその辺にゴミを捨てる人々―公共知能の心理学』 佐別洋子・著(雑草思社刊) 往来や道端、植え込みや公園など、けしてゴミ捨て場ではない公共の場所に平気でゴミを捨てることのできる人々がいる。そういう人々とそうでない人々ではどこがどう違うのか。本書では、綿密な聞き取り調査とデータ収集に基づいた分析によってその考察を行っている。
ある程度の教養のある者なら、公共の場でゴミを散らかすことはまずないものと思われるが、その「ある程度の教養のある者」とは、資質的に、ある程度の知性があり、それなりの知能が備わっている者にほかならないだろう。本書の画期的なところは、人の公共性や公衆道徳性について「公共知能指数」という概念を導入しているところであり、結論から言うと、「平気でその辺にゴミを捨てる人々」はそうでない人々よりも資質的に「公共知能指数」が低いと断定しているところである。平たく言えば、平気でゴミを捨てる人々とは、人としてバカなのである。
『行楽神経症家族』 呑山リカ・著(夕日新聞社刊) 連休中はもとより、休日ごとにどこか行楽地に出かけないではいられない人々がいる。休日になると、どうしても家にいることのできない人々がいる。そういう家庭がある。そして、そういう人々は、この国にことのほか多い。そのような人々について、その心理状態にまで踏み込んで考察したのが本書である。
どうして彼ら(彼女ら)は休日ごとに行楽に繰り出さなければいられないのか。そして、なぜそのような人々がわが国に多いのか。人だらけの行楽地や異常な交通渋滞、満員電車にもかかわらず、どうしてそのようなことをひたすら繰り返すのか。
著者はそこに、精神神経病理学の視点を導入し、集団的な神経症の症状を見て取っている。
『ラーメン屋の行列』 宮大工真司・著(過度川書店) ラーメンはわが国でも最もポピュラーな食べ物のひとつであり、どの町にもラーメン屋の一軒はあるものだが、しかし最近では、不特定多数のラーメン屋にいつも行列ができてしまうという状況の時代にまでなっている。ラーメン屋に長蛇の列ができてしまう時代とは一体どういう時代なのか。
さらにハナシはラーメンだけにとどまらない。たとえば、激辛ブームとはいったい何なのか。韓流かんりゅうと大衆がなびいてしまう時代とはどういう時代なのか。マスメディアやツイッター、口コミなどによって、すぐに何かが異様に大評判になってしまう時代とはどういう時代なのか。
ひとことで言うと、ラーメン屋の行列は、いわゆる付和雷同時代における一連の現象のひとつとして捉えられる、と本書は述べている。社会学者である著者ならではの考察の切れ味は鋭く、かつ的確である。
『もし高校サッカーの女子マネージャーがソシュールの『一般言語学講義』を読んだら』 浅井考・著(ダイヤモドキ社) 難解とされているソシュールの『一般言語学講義』を、たまたま高校サッカー部のマネージャーであるひとりの女子高校生が読んでしまったら。そして、ソシュールの言語学にみられる関係論的な視座や構造主義的な概念を自らのマネージメントに行かそうと発想したら…ソシュールの思想が高校サッカー部の部活の物語として展開される。小説の形式で描かれているものの、本書はソシュールのよい入門書と言えるだろう。
サッカーのプレーヤーは、ひとりひとりがそれぞれの思いつきだけで動いているわけではない。すぐれたサッカーチームのプレーヤーの相互間には、ひとりひとりのプレーだけではなく、共有された予測性や判断性が有機的に連動して働いている。そこには美しくも関係論的な、あるいは構造主義的な「統率された共通意識」というものが存在している。
『非ツイッター的人間』 つぶやき五郎・著(あくま新書刊) ツイッターはここ数年、社会で爆発的な広がりを見せている個人メディアであるが、そのようなツイッター社会にあって、人々は誰でもツイッターになじむことができると思われがちであるが、実はツイッターというメディアにほとんどなじまない不特定多数の人たちがいる。非ツイッター的人間とでも言うべき存在がある。
「たとえ趣味を同じくするような他者であったとしても、その『つぶやき』を頻繁かつ恒常的にフォローしてゆくのはかったるい。そこまで他者という個人の発する『つぶやき情報』に興味はない」
「頻繁かつ恒常的にツイットするにはアイフォンなどの携帯機が必要になるのだろうが、そもそも、アイフォンなどでの文字の読み打ちが、ちまちましていて、好きではない。ましてや、それを頻繁かつ恒常的に行うことなどとんでもない」
本書は、主として非ツイッター的人間の実態や状況について書かれたものであるが、それは逆に、「ツイッター的人間」のありさまも巧みにあぶり出している。